林忠正海外に流出させた作品とは美術商なのに国賊と言われた訳知恵泉

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日本美術を海外に広めた林忠正さん。でも、なぜか「国賊」とまで呼ばれたという話、気になりませんか?番組だけでは拾いきれない背景を、わかりやすく整理してみました。


NHK「知恵泉」で取り上げられる林忠正さんは、日本の美術を海外へ紹介した立役者。でも当時の日本では「文化を売った」と見る声もあり、功績の裏で非難も受けていました。番組ではその功績が主に描かれるでしょうが、「どうして国賊と呼ばれるまでになったの?」という声が視聴者から上がりそうです。この記事では、そんな素朴な疑問に答えるかたちで、林忠正さんの人生と評価の流れをやさしく紐解いていきます。


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林忠正 海外に流出させた作品とは

パリ万博で売られた浮世絵の数々

林忠正さんが注目されたのは、1878年のパリ万国博覧会をきっかけに始めた日本美術の取引。特に浮世絵屏風など、当時の日本では見向きもされなかった品々を海外に届けました。西洋の芸術家たちはその魅力に目を見張り、ここからジャポニスムというブームが始まります。

  • 影響を受けたのはゴッホモネなど、名だたる画家たち。
  • もしも林忠正さんがいなかったら、これらの作品は焼却されていた可能性も。

流出=文化損失と捉える声も

ただし、これが国内で問題視されたんです。「自国の宝を売った」という見方が生まれ、やがて「売国奴」「国賊」という言葉が飛び交うように。当時の日本では浮世絵は“紙屑”とまで言われていましたから、評価のギャップが生んだ批判ともいえます。

「そんなにまで言われていたなんて…」と驚いた方も多いのでは?

背景には、美術に対する無理解や、成功者へのやっかみも見え隠れします。


林忠正 美術商なのに国賊と言われた訳

社会的バッシングと誤解の連鎖

1900年のパリ万博で事務官長を務めていた林忠正さん。その頃、ある社会主義者の転落死事件があり、なぜか林忠正さんが疑われ、「殺し屋を雇った」とまで書き立てられました。まったく根拠のない話だったのですが、当時のメディアは面白おかしく報じてしまったんですね。

のちにこれは「失恋による自殺」と明らかになりましたが、林忠正さんのイメージは傷ついたままでした。

晩年の困窮と名誉回復の道

その後、林忠正さんは美術商を辞め、弟を亡くし、報酬もないまま帰国。日本での生活は決して順風満帆とは言えず、困窮の中でこの世を去ります。しかも、亡くなった後も「国賊」として扱われ続けたのです。

ですが、1980年代になって事態が変わります。孫の嫁である木々康子さんが奔走し、林忠正さんの功績がようやく認められ、「日本美術界の救世主」と呼ばれるようになったのです。

まさに、時代の価値観が大きく変わっていった結果でもありますね。


まとめ

林忠正さんが「国賊」と呼ばれた裏には、価値観の違い、嫉妬、誤解といったさまざまな要因が重なっていました。今ではその功績が広く評価されていますが、当時はとても厳しい風当たりだったのです。番組を観て気になった方にこそ、知っておいてほしい背景です。

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