6月21日放送の『ブラタモリ』青山通り回では、「青山氏の子孫」が登場することが事前に予告されています。ただ、その方についてはあまり詳しく紹介されておらず、「誰なの?」「どういう人?」と気になっている方も多いのではないでしょうか。この記事では、そんな“モヤッとする”部分に焦点をあてて、歴史的背景と現代とのつながりをわかりやすくひもといていきます。
歴史の中の青山氏ってどんな人?
「青山氏の子孫誰?」と気になった方、実は“青山”という地名そのものが人物名に由来しているって、ご存知でしたか?
- 青山忠成(あおやまただなり)は、徳川家康の古くからの家臣で、江戸町奉行や老中などの要職を歴任。
- 家康から現在の赤坂・青山一帯に広大な屋敷地を与えられ、そこが「青山」と呼ばれるようになりました。
- その後も青山家は掛川藩や篠山藩などを治め、歴史にしっかり名前を残しています。
“青山=おしゃれな街”というイメージが強いですが、実は江戸時代からの由緒ある場所だったんですね。
【地名の?東京篇】:青山(あおやま):青山忠成が 1591年、関東支配を確実した家康(秀吉が太閤になった年)の鷹狩りの供をした際に「見えるかぎりの土地を与える」といわれ、忠成は馬を走らせて、赤坂から渋谷に至る土地を拝領。そこに屋敷を建てたので、青山という地名に。なったそう。 器のShun pic.twitter.com/yJhuzzZBIe
— utsuwa-Shun (@ShunUtsuwa) November 8, 2024
今回登場した子孫って、どんな人?
番組の予告では「青山氏の子孫が登場」とだけ紹介されています。でも…
- 名前や職業などの情報は公開されていません。
- NHKらしく、個人情報への配慮が徹底されているようです。
- 画面には映るけれど、詳しく説明されず“ふわっと終わる”可能性もありそう。
だからこそ、視聴者としては「結局、あの人って誰だったの?」とモヤモヤが残ってしまい、思わず検索したくなってしまうんですよね。
青山通りの魅力と地名の背景
今回の舞台、青山通りはただの道じゃありません。実は歴史、地形、文化がギュッと詰まった、東京でも屈指の見どころエリアなんです。
- 青山墓地や梅窓院など、青山家ゆかりの場所が今も点在。
- 六本木通りとの高低差を比べてみると、地形マニアにはたまらない発見が。
- 「三分坂」や「薬研坂」など、名前の由来がユニークな坂道も多数。
「三分坂」と「薬研坂」の名前の由来
三分坂(さんぷんざか)
- 三分坂の名前の由来には複数の説がありますが、主に「坂の勾配が非常に急なため、荷車を押してもらう際の車賃を銀三分(さんぷん、現在の価値で百円余り)ほど増額したため」とされています。
- また、坂下の沼地の渡し賃が一分だったのに対し、坂の荷上げ賃が三分だったことに由来するという説もあります。
- いずれにせよ、江戸時代から急坂として知られており、実際に現在もかなりの勾配を持つ坂です。
薬研坂(やげんざか)
- 薬研坂の名前の由来は、「坂の中央がくぼみ、両側が高くなっている地形が、薬を砕く道具“薬研(やげん)”の形に似ているため」とされています3。
- 付近の住民の名に由来して「何右衛門坂」とも呼ばれていたこともあります3。
どちらも江戸時代からの歴史ある坂で、地形や当時の生活、貨幣価値が反映された命名となっています。
こういう“ちょっとした知識”があるだけで、いつもの街歩きがぐっと楽しくなりますよ。
なぜ「検索殺到」するのか、理由はこのあたり
「青山氏の子孫誰?」という疑問が浮かぶのは、次のような理由があるからです:
- 映像には出ているのに、紹介がとてもあっさり。
- 現代の服装で、特に“武家の末裔”といった雰囲気は出ていない。
- でも青山という名前の持つ歴史的インパクトが大きい。
この“情報が足りない感”と“名前の重み”のギャップが、検索トリガーになっているんですね。
今また注目されているワケ
・青山って“ただの地名”じゃなかったの!? と、ちょっと驚きますよね。
・最近「ルーツをたどる」企画が人気で、自分が知っている場所の背景を深掘りしたくなる人が増えてる印象です。
・地名のルーツから歴史をたどれるなんて、ちょっとした“街歩きの宝探し”みたいで楽しいです。
実生活で楽しむなら、こんなアレンジも
- 表参道や赤坂で「ここ、昔は青山さんの屋敷だったんだよ」と話せたら、ちょっとした豆知識王かも。
- 郡上八幡の「郡上おどり」って、実は青山家とゆかりがあるんですよね。現地に行くと見方が変わるかも。
- 街の坂道や路地に注目して歩くと、普段見過ごしていた風景が別世界に見えることもあります。
郡上おどりと青山家の関係
- 青山家は江戸時代、郡上八幡藩(現在の岐阜県郡上市)の藩主を務めた大名家です。
- 青山家はもともと徳川家康に仕えた譜代大名で、さまざまな土地を治めた後、宝暦9年(1759年)に金森氏の改易を受けて郡上八幡に入封し、以降明治維新まで郡上を治めていました。
- 郡上おどりの起源と青山家の関与
- 郡上おどり自体は江戸時代以前から続く盆踊りですが、青山家が郡上藩主となってからも藩をあげて奨励され、地域の伝統文化として発展したんですね。
- 郡上八幡に青山家が入部した際、藩主・青山幸道が領民の出迎えに対し三百文ずつ与えたことに感激した人々が、披露した踊りが「三百」と呼ばれ、これが郡上おどりの一部として今も残っているというエピソードも伝わっていますよ。
- 青山家と東京・青山のつながり
- 青山家の江戸屋敷があった場所が現在の東京都港区青山であり、地名の由来にもなっていますのでこの縁から、東京・青山でも「郡上おどり」が開催されるようになり、郡上八幡から本場の保存会が招かれるなど、現在も文化交流が続いているんですよ。
タモリさんとのリンクもじんわり感じる
地形や地名に詳しいことで知られるタモリさん。実際、『タモリ倶楽部』でも坂道や地図をテーマにした回が何度もありましたよね。今回の青山回でも、そうしたタモリさんの“地形愛”がチラッと垣間見えるのでは?と楽しみにしている人も多いようです。
注意しておきたいこともあります
- 現代の子孫はあくまで一般人かもしれません。あまり深追いせず、紹介された範囲で楽しみましょう。
- 番組側も「わかりすぎない」構成にしている可能性があります。その曖昧さを楽しむのも一つのスタイル。
- ネットで盛り上がったからといって、全てを知ろうとしすぎないのも、視聴者のマナーかもしれませんね。
こんな楽しみ方も広がっていくかも
青山という名前に、こんなに深い歴史と人物の物語があったなんて、ちょっと意外でしたよね。ブラタモリで紹介されたあの場所を、次は自分の足で歩いてみたくなった方も多いのではないでしょうか。
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